人事のあり方を大きく変えつつある潮流の1つが、「HRテクノロジー」と呼ばれる人事領域におけるさまざまなデジタルソリューションの普及だ。もちろん、単にデジタルソリューションやツールを人事に導入するだけでは、人財の価値向上や人事の効率化は実現しない。
実効性の高いHRテクノロジー導入のポイントや留意点とは何か。この分野の第一人者であり、人事におけるデータ活用の推進とその前提となるジョブ定義の啓発に取り組んでいるSP総研代表取締役 人事ソリューション・エヴァンジェリストの民岡 良氏に聞いた。
人財の価値を捉え直すことがHRテクノロジー活用の大前提
AI(人工知能)やビッグデータ解析などのテクノロジーを活用して、人事活動の質的向上を目指す企業が増えている。ここで役立つのが「HRテクノロジー」だ。以前から従業員一人ひとりの能力を発揮してもらうためには「個」にフォーカスした人財配置や評価、育成の枠組みが重要であると指摘されてきた。実際に従業員全員の個性に着目しようとすれば、上司や人事担当者の勘と経験に頼ったやり方では対応しきれない。一人ひとりの資質や能力、スキルをデータとして把握・分析することが不可欠になる。
HRテクノロジーの普及に伴い、人事部門のあり方も大きく変わっていく可能性がある。Adecco Group の報告書『未来のチーフ・ピープル・オフィサー』で、人財マネジメントのエグゼクティブに対し、20年後の将来どんな業務に時間を費やすと考えられるかを尋ねたところ、「データ、ピープル・アナリティクス、予測」に費やす時間が2.7%増と最も高かった(図1参照)。
図1
CPOは将来、データサイエンティストおよび変化の促進を担う方向へ進化する
チーフ・ピープル・オフィサー(CPO)は
20年後の将来、データ、ピープル・アナリティクス、
予測に費やす時間が
2.7%増と
最も増加するだろうと回答
「チームとコア人事機能のマネジメント」は-1.4%、「コンプライアンスと規制手続きに従事する時間」は-1.5%と減少を予測しており、従来の人事マネージャー的な側面から、テクノロジーに関わる技術的な役割へのシフトを予測している。
データとピープル・アナリティクスを
理解することが将来的に
重要なコンピテンシーになると考えている
86.9%
技術やデータへの関心と、⼈、文化、変化への関心のバランスを求められる新しい役割像への移行が浮き彫りになった。
出典:Adecco Group報告書『未来のチーフ・ピープル・オフィサー』
日本企業の間でもHRテクノロジーの活用を本格化させようという機運は高まっているが、導入は遅れ気味だ。
「根本原因は『競争優位性の源泉は人である』と言いながら、企業側が従業員たちを投資対象として捉え、価値ある存在だと理解してこなかったことにあります」と民岡氏は強調する。
「自社の従業員の価値を定量的なデータとして把握できている企業は、日本では決して多くありません。多くの日本企業は従業員たちを、価値を生む『資産』や『資本』としてではなく、『費用』(コスト)と捉えているといえます。そのため、仮にHRテクノロジーを導入したとしても、それを生かすための人財データがない状態です。まずは従業員一人ひとりを価値ある存在として捉え直すことが、HR テクノロジーを活用するための第一歩になります」
「セルフジョブ定義」で従業員のスキルをデータ化
自社の人財の価値を定量的に把握するにはどうしたらいいのだろうか。さまざまな方法が考えられるが、なかでも有効な手法として民岡氏は「セルフジョブ定義」を挙げる。
「私たちは従業員一人ひとりと対話して、担当している職務(ジョブ)の内容とその遂行に役立っていると自覚しているスキルについて語ってもらうワークショップを提供しています。人事担当者や外部のコンサルタントが従業員を一方的に評価するのではなく、対話を重ねていきながら職務内容と保有スキルを本人が自らの言葉で明らかにしていくことを『セルフジョブ定義』と呼んでいます」
セルフジョブ定義の具体的な手順は、まずジョブ定義シートを用いて、自分の職務と保有スキルを自身の言葉で記述してもらうことから始まる(図2参照)。本来、このような「スキル棚卸し」活動の目的は、従業員の能力や特性を把握して育成などに活用することだが、実際には人事査定のための活動だと思われがちだ。そこで最初から自分自身でジョブとスキルを定義してもらうことでそうした誤解を避け、このプロセス全体を自分事として捉えてもらえるメリットがあると民岡氏は話す。
図2
セルフジョブ定義シート
自身の言葉で担当している職務・役割の説明、職務遂行に役立っていると自覚している保有スキルの洗い出しを行う。
ただ、自分の言葉でスキルを表現するだけでは第三者に伝わりにくい可能性がある。部門内だけでしか通じない言い方や、独特のスキル呼称がある場合もあるだろう。そこで次の手順として、グローバルで標準とされるスキルの一覧表を参考に、最も近いものに置き換えていくことで統一化・標準化を図っていく。SP総研が提供するサービスでは、entomoというソリューションに組み込まれているMapRecruit社の技術を活用しており、パーシングによって読み込み・解析された8000万件以上のレジュメデータや、300万件以上のジョブディスクリプションのデータをベースとして構築したスキルライブラリーがあり、スキル一覧として参考になる。たとえば、自分のスキルを「よく気付く」とか「やり切る」と表現していたなら、「洞察力」「実行力」に当てはまるといえる。「根性がある」と表現していたなら、「あきらめない粘り強さ」「結果を出す力」といったスキルに当てはめるという具合だ。併せて、該当するスキルについての自分の習熟度はどのくらいか、4段階ある定義に照らし合わせて数値で書き込んでもらう。こういった従業員主導の取り組みで、個人の職務内容とスキルがデータ化されていくのである。
「日本のビジネスパーソンは自分の強みを表現するのが苦手です。奥ゆかしさもあるのでしょうが、何がスキルに該当するのかがわからないという方が少なくない。そこで、われわれがファシリテーターとして質問を投げかけながら、客観的に共有可能なスキルセットとして整理していくのです。最近のHRテクノロジーのなかには、機械学習機能などにより世界中のスキルのトレンドを常に把握してリスト化しているようなものもあります。われわれも、従業員の方々との面談で出た言葉を手がかりに、リストのなかから最もふさわしいスキルを選んでいます。グローバルで通用する客観的なスキルセットに置き換えるためのツールとしても、HRテクノロジーは活用できます」
セルフジョブ定義のプロセスを通じて従業員のスキルがデータ化できれば、それをHRテクノロジーに投入することで自社独自の人財データベースを構築できる。社内の各部門にどのような人財がいるのか、それぞれの職務を行うのにどのようなスキルが必要か、就きたい職務のために今後どのようなスキルを習得すべきかなども明らかになる。共通化されたキャリアモデルが社内に公開されることで、人財配置や育成などにHRテクノロジーを効果的に活用することができる。
また身近なところでは、上司と部下が1対1で定期的に話し合うミーティングの精度が高まると民岡氏は語る。
「頻繁に面談することで部下の育成などに役立つといわれてきましたが、現実には『頻度の高い雑談』になりがちでした。理由は、育成に役立つ『会話の材料』がなかったからです。セルフジョブ定義により社内のスキルが見える化されれば、面談の場で今後挑戦したい職務を聞き出したり、そのために必要なスキル習得について具体的にアドバイスするなど、個人起点のキャリアデザインを支援しやすくなります」
これからの人事部門は奉仕者となり従業員体験の最大化を
HRテクノロジーが本格的に企業に導入されていくなかで、人事部門のあり方はどう変わっていくべきか。民岡氏は、「これからの日本の人事は、従業員体験の向上のための奉仕者となることを目指してほしい」と強調する。
マーケティングの世界ではデジタルテクノロジーを駆使して顧客が商品・サービスに関心を持ってから実際に購入・利用するまでのすべての体験=顧客体験の最大化を図るのが一般的だ。
「人事部門もこれと同様の視点に立って従業員体験の向上に努めるべきです。従来の人事は、当事者が望んでいなくても、理由や目的が不明瞭なまま単なる『慣例行事』として、2年ごとにジョブローテーションさせるような施策をとってきました。その結果、従業員が疲弊したり不満を抱くような状態になったりしたら、その先にいるお客様を大切にすることもできず、良い顧客体験も実現できるはずがありません。カスタマーファーストを実現するためにも、人事部門が従業員ファーストの視点に立つことが大切だと思います。従業員ファーストであれば、おのずと最新のHRテクノロジーを上手に活用したくなるはずです」
従来の人事異動や昇進のルートも、従業員一人ひとりのキャリアビジョンに沿って多元化・多様化していく必要があると民岡氏は指摘する。
「従来はハシゴを上るようにキャリアを積み、スキルの習熟度を高めていくのが通常でした。出世コースを目指すスタイルです。しかし、それをすべての従業員が望むわけではありません。たとえばマーケティング部門にいた従業員が、世の中のトレンドや自分の資質を踏まえて畑違いのソフトウェア開発部門の仕事へのチャレンジを望むなら、人事はそれを支えるべきでしょう。
これからの人事が用意すべきは、一本道の出世コースではなく、従業員一人ひとりがキャリアビジョンを達成できるように多様なキャリアマップをつくり、導くことです。セルフジョブ定義を経て、自社の人財データベースが構築できていれば、どの職務についてどのようなスキルを身につければよいか、丁寧なキャリア支援ができるはずです。従業員体験の向上のためにも、HRテクノロジーを活用していってほしいと思います」(図3参照)
Profile
民岡 良氏
株式会社SP総研 代表取締役
人事ソリューション・エヴァンジェリスト
一般社団法人HRテクノロジーコンソーシアム理事
慶應義塾大学経済学部卒業。日本オラクル、SAPジャパン、日本アイ・ビー・エム、ウイングアーク1stを経て、2021年にSP総研 代表取締役就任。
「持続可能な働き方」を追求するためのコンサルティングサービスを提供しており、「人的資本の情報開示」(ISO30414)に関する取り組みについても造詣が深い。日本企業の人事部におけるデータ活用、ジョブ定義、スキル定義を促進させるための啓蒙活動にも従事。