山田 久氏
日本総合研究所 副理事長
京都大学経済学部卒業後、1987年に住友銀行(現三井住友銀行)入行。経済調査部、日本経済研究センター出向を経て、1993年に日本総合研究所調査部出向。調査部長兼チーフエコノミストなどを経て2019年より現職。2015年、京都大学博士(経済学)。著書に『賃上げ立国論』(日本経済新聞出版社)など多数。
2022年は、国際政治の緊迫化と地政学的リスクの顕在化、エネルギー価格高騰に伴う世界的なインフレなど、新たな問題が次々と浮上した。2023年、日本と世界の経済・雇用情勢はどうなるのか。日本総合研究所の副理事長、山田 久氏に語っていただいた。
ウィズコロナが定着し、ようやく経済が回復に向かうものと期待された2022年、世界を驚かせたのはロシアによるウクライナへの侵攻だろう。国際情勢を大きく揺るがせただけでなく、ロシアが主要な天然ガス供給国であることから、世界のエネルギー需給は混乱をきたし、資源・エネルギー価格の上昇を招いた。世界的なインフレが起こり、日本経済も急激な物価高に見舞われている。2022年11月の消費者物価指数(生鮮食品を除く)の前年同月比上昇率は3.7%。40年11ヵ月ぶりの記録的な伸びである。
では、2023年のマクロ経済動向はどう推移するのだろうか。まず、現在起こっているインフレは、ウクライナ情勢に伴う一過性の問題ではなく、あくまで世界経済の枠組みが変わったことに起因する構造的な問題と捉えるべきだと山田久氏は話す。
戦後の国際政治・経済の推移を見ると、東西対立の冷戦時代を「第1フェーズ」、やがて冷戦が終結し、ロシアや旧東欧諸国、中国なども含めて世界が共通のグローバル市場に参加するようになった1990年代以降を「第2フェーズ」と位置づけることができる。第2フェーズにおいては、企業はまさに「グローバル化」をキーワードに、世界各国に生産・販売拠点を展開し、より低コストで効率的なサプライチェーンを構築していった。
「しかし、現在の世界は新たな『第3フェーズ』に突入しています。2010年代に入り、米中摩擦が顕在化。これらを契機に、世界は『脱グローバル化』『分断』の時代に向かいました。ウクライナ情勢によって、その流れが一層鮮明になったのが2022年だったと捉えることができます」
これは企業にとって、コスト競争力や効率性を最優先してグローバルに活動できる時代が終わったことを意味する。つまり今後は、たとえコストが割高になっても、地政学的リスクを回避できるように十分配慮して、グローバル・サプライチェーンを構築していかなければ、企業はビジネスの継続性を保てない。
さらに、エネルギー価格に上昇圧力を与えているのが、「脱炭素」の世界的な潮流である。欧州諸国を中心に化石燃料の開発を抑制し、再生可能エネルギーへのシフトが進められているが、太陽光や風力などのエネルギー供給は不安定だ。それを補うには大規模な蓄電インフラが必要で、その構築にまだ10年ほどかかると見られている。その間は化石燃料に頼らざるをえないが、ウクライナ情勢に伴ってエネルギー需給が逼迫した。
「世界経済の枠組みが第3フェーズへと移行したことと、脱炭素を背景にエネルギー需給が逼迫していることにより、世界は『高コスト・インフレ』の時代を迎えました。短期的な変動はあるものの、2023年も物価高は続くはずです。仮に物価変動がやや落ち着いても、かつてのデフレ時代に戻ることはないと認識しておく必要があるでしょう」
経済動向を踏まえ、雇用情勢の先行きはどうなっていくのか。物価高との関係で特に関心を集めているのは、賃金の動向である。すでに欧米では賃金水準の上昇傾向が見られるが、日本は1990年代以降、ほとんど変わっていない。今後、物価が上昇する一方で、引き続き賃金が上がらなければ、人々の生活は苦しくなる。物価上昇と同時に、賃金水準も高まって消費が活発化し、それが物価を押し上げるという好循環が生まれていくことが期待されている。
賃金を押し上げる基本的な要因の1つは人手不足だ。日本はコロナ禍以前から、人口減少に伴って労働力人口が減り、あらゆる業界で人手不足が起こっていた。また、コロナ禍に伴って外食業やサービス業などが休業し、主にパート・アルバイトなどの非正規雇用労働者が離職や休業、仕事量の急減を余儀なくされた。特にシニア層や主婦層などは、一旦仕事から離れると再び働き出すのが遅くなる傾向がある。営業が再開して以降も働き手の戻りは遅れており、これらの業界では深刻な人手不足が起こっている。
そのため日本では現在、非正規雇用労働者を中心に賃金水準が上昇しはじめている。これが今後、さらに正社員の賃金上昇に波及するかが注目されるところだ。2023年は、大手企業を中心に、正社員の賃金を引き上げる例が増えてくるだろうと山田氏は見る。
ここで日本企業にとって重要なのは、経済環境が「第3フェーズ」に入ったことを踏まえ、これまでの事業モデルを見直すことだ。
「多くの日本企業はコスト競争力を優先してきたため、たとえ製品の品質や職場の労働生産性が高まっても、それを価格転嫁せず、賃金水準も抑える事業モデルを続けてきたわけです。しかし経済が『高コスト・インフレ』が前提となる第3フェーズに突入した以上、そのやり方は通用しなくなっていきます。『品質の良いものを安く売る』ではなく、『高付加価値のものを高く売る』というモデルに転換することが不可欠。消費者に値上げを無理なく受け入れてもらうという意味でも、企業は事業モデルを見直し、賃上げにも積極的に取り組んでいくべきです」
また、以前から指摘されているように、米国は労働力の流動性が高く、新たな成長産業への人財シフトがスピーディに行われ、それが経済の活力につながっている面がある。今のような産業構造の転換期においては、日本も単に賃金水準を高めるだけでなく、よりよい待遇を求めて人財がスムーズに移動できるようにしていくことが重要になる。
「ただし日本では、働く個人が自分のキャリア形成のあり方を企業側に決めてもらうような傾向が強い。これは意識の問題だけでなく、個人のキャリア自律を支える社会インフラが整っていないためでもあります。例えば米国では、『経営企画』や『人事』『マーケティング』など、専門性を持つ人々が企業横断的に交流する職業コミュニティがあり、そこで自分が身につけるべき能力についてアドバイスを受けたり、新たな人脈を構築したりしています。こうしたインフラ整備も含めて、労働力の流動化を進めていくことがますます大切になると考えます」
企業が新たな付加価値を創出していくには、社内の人財がその能力を最大限に発揮できるような経営やマネジメントも重要になる。これを踏まえて政府では、経済産業省を中心に人財を無形資産として成長に生かす「人的資本経営」を推進しており、実際に取り組む企業も増えている。
ここで留意すべきは、「経営陣が何らかの『正解』を知っていることを前提に、トップダウンで人や組織を動かしていくような経営はもはや機能しない」ということだと山田氏は強調する。
「人的資本経営では、経営戦略と人事戦略を連動させることが重要だとよく言われています。今やビジネスの正解が誰にもわからないので、これまでのような経営者が正しい経営戦略をつくって、人事戦略をそれに従属させるという発想ではなく、社員一人ひとりが問題意識をしっかり持ち、既存ビジネスの枠を超えた社会課題の解決策を主体的に考え、事業化を進めていくことが重要です。もちろん簡単ではありませんが、これを支えるような経営戦略と人事戦略を創り上げていくことが企業に求められているのだと思います」
新たな価値創造のためには、多様な人財が互いの知見や価値観を共有し、刺激しあえるようなイノベーティブな組織づくりやマネジメントもますます重要になると山田氏は話す。具体的には、外部の知見を取り入れる機会を増やす意味で副業・兼業を推進したり、複数企業から多様な人財が参加するオープンイノベーション型プロジェクトを立ち上げたりすることが考えられる。
「以前から、日本の“モノづくり品質”も“おもてなし”も、国際的な評価は高いですが、それらは価格には転嫁されてきませんでした。『高コスト・インフレ』を前向きな変革の好機と捉え、コスト競争型から付加価値創造型へ、ビジネスモデルや組織・マネジメントを転換することができれば、2023年以降の日本経済はより良い方向に向かうことができるのではないでしょうか」
山田 久氏
日本総合研究所 副理事長
京都大学経済学部卒業後、1987年に住友銀行(現三井住友銀行)入行。経済調査部、日本経済研究センター出向を経て、1993年に日本総合研究所調査部出向。調査部長兼チーフエコノミストなどを経て2019年より現職。2015年、京都大学博士(経済学)。著書に『賃上げ立国論』(日本経済新聞出版社)など多数。