谷口 真美氏
早稲田大学商学学術院 教授(国際経営論)
1996年、神戸大学大学院経営学研究科博士後期課程修了、博士(経営学取得)。2008年4月より現職。13年8月より15年3月までマサチューセッツ工科大学(MIT)スローン経営大学院研究員。
20年度まで経済産業省ダイバーシティ経営企業100選/プライム運営委員。ダイバーシティを専門とし、06年から現在までボストン大学ダグラス・ホール名誉教授らと、キャリア意識と行動の26カ国比較研究に取り組む。
2020年9月に経済産業省が「人材版伊藤レポート」を公表して以来、日本企業においても「人的資本経営」の重要性に注目が集まっている。人的資本経営とは、従業員をコストではなく資本と捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方だ。
企業はどのような点に留意してこれからの人財戦略を策定していけばよいのだろうか。
「人材版伊藤レポート2.0」の作成に関わった早稲田大学の谷口真美教授に、本質を捉えた人的資本経営の取り組み方について聞いた。
日本企業の多くが人的資本の重要性を認識するようになった。一方で、経営戦略と人財戦略を連動できている企業はそう多くない。経営戦略と連動させた人財戦略の取り組みの指針を示したのが、「人材版伊藤レポート2.0」だ。
このレポートの作成に関わった谷口氏は、「人的資本経営を実現させるためには、『経営戦略と連動した人財戦略の取り組み』と、『投資家への情報の可視化』の両輪が必要」という。
まず、経営戦略と連動した人財戦略の取り組みについて説明しよう。レポートのなかでは、人的資本経営を実践する考え方として、3つの視点と5つの共通要素が示されている(図1参照)。
3つの視点と5つの共通要素は、人的資本経営への変革に取り組むためのアイデアとして提示されているものである。いかに具体化し、実践に移していくかは、各企業の事業内容や環境によって独自に練り上げていくものだ
1つ目の視点として、「経営戦略と人財戦略を連動させるための取り組み」。2つ目が、「『As is-To be ギャップ』の定量把握のための取り組み」。As is とは現状で、To be は将来のありたい姿を指す。そのギャップを把握する必要があるという。
「多くの企業は『何年後にこうします、こうありたいです』というTo be ばかりを描いており、As is が欠けています。現状とありたい姿のギャップを定量的に把握しなければ、どんな取り組みが必要なのかは見えてきません」
3つ目の視点が、「企業文化への定着のための取り組み」。取り組みは一過性で終わらせず、全社的な企業文化として定着させる必要がある。
これらの視点を持ったうえで、5つの共通要素として「動的な人財ポートフォリオ計画の策定と運用」「知・経験のダイバーシティ&インクルージョンのための取り組み」「リスキル・学び直しのための取り組み」「社員エンゲージメントを高めるための取り組み」「時間や場所にとらわれない働き方を進めるための取り組み」を挙げている。
「このレポートを見た企業は、3つの視点と5つの共通要素をチェックリストのように捉え、すべてに漏れなく取り組もうとするかもしれない。しかし、それは間違っている」と谷口氏は指摘する。「企業によって人員構成や事業内容は異なります。当然、取り組むべき重要課題も、企業ごとに違うはずです。そのため、どの企業にとっても『これが最も重要だ』という取り組みは存在しません。何を重要課題として取り組むのか、それぞれの企業が選ぶ必要がある。なぜ、その課題に重点を置くのか、自分たちなりの正解を探すことが重要なのです」
取り組むべき課題を決める際に大事なのは、「中堅社員が腹落ちする」こと。どれだけ経営陣が重要だと考え、経営計画に組み込んだとしても、職場の中核である中堅社員をはじめ従業員一人ひとりが納得しなければ、その計画は実現しない。
さらに、「計画変更をダイナミックに行う」こともポイントになる。「コロナ禍やウクライナショックなど、変化が激しく複雑性が高まっている時代において、ビジネス環境は大きく変わっていきます。環境の変化に合わせて柔軟に計画を変更していく姿勢が大切です」
これらを踏まえて、自社なりのKPIを策定し、価値創造ストーリーをつくっていくことが重要だ。
次に、投資家への情報の可視化については、何の項目を開示するかがポイントとなる。情報には他社と横並びの「比較可能性」項目と、自社独自の「独自性」項目がある(図2参照)。
A社 | B社 | N社 |
|
---|---|---|---|
比較可能性 | ●開示情報A1 | ●開示情報B1 | ●開示情報N1 |
●開示情報A2 | ●開示情報B2 | ●開示情報N2 | |
●開示情報A3 | ●開示情報B3 | ●開示情報N3 | |
独自性 | ●開示情報A4 | ||
●開示情報B4 | |||
●開示情報A5 | |||
●開示情報A5 |
出典:谷口真美氏の資料を基に作成
人的資本の開示は、自社の価値を説明するものだ。そのため、比較可能性項目とともに、自社ならではの項目をバランスよく両立させ、独自性を伝えることが重要だ
「人的資本の開示は、倫理的な義務として、あるいは他社が発表しているから後れをとってはならないなど、受け身的にネガティブチェックを避ける理由から行っている企業が多いのが現状です。そうではなく、他社と比較できる情報と独自の情報のバランスを考え、ポジティブに開示項目を設計することが大事です。統合報告書からその企業ならではの価値が見えなければ、投資家には響きません。ROE(自己資本利益率)の向上につながらないし、株価や時価総額、さらには企業価値も上がらないでしょう」
情報開示には、比較可能性項目によって他社と比較ができたり、独自性項目に魅力を感じたりして求職者が集まるといった副次的な効果も期待できる。
5つの共通要素にある「リスキル・学び直しのための取り組み」について、企業が意識すべきことは何だろうか。
「日本は欧米に比べて教育訓練投資が少ないといわれていますが、メンバーシップ型とジョブ型の違いもあり、一概に比べられるものではありません。日本では、日常業務のなかで、上司が部下を教育していますよね。教育訓練費用が少ないから増やしましょうと安易に外部委託研修を増やすのは早計な判断です。育成目的での異動、海外留学など、自社が提示している機会も含めて、そのコストをきちんと公表していく必要があると思います」
そのうえで、新規事業や今後伸ばしたい事業にどんな研修や学習の場が必要かを考え、教育の目的と手段を合致させることで教育投資が生かされる。
「知・経験のダイバーシティ&インクルージョン」に関しては、個人のなかの多様性を意味する「個人内異質性」の高い人財を増やすことが重要である。「性別や年齢、人種など『表層のダイバーシティ』だけではなく、スキル、経験、物事の見方、価値観など、目に見えない『深層のダイバーシティ』に着目すると同時に、『個人内異質性』、つまり相互理解のための基礎づくりが重要です。インクルージョンを意識して、多様な人財の能力がお互いに生かされる環境をつくることにより、深層のダイバーシティが機能します」
「社員エンゲージメントを高めるための取り組み」が共通要素にあるように、取り組みを進めていくためには、従業員の心理も忘れてはならない。
「人は論理だけではなく感情で動きます。エンゲージメントが高く保たれた状態で社員が働くことで、会社の風土は大きく変わります。そのため、ウェルビーイングも重要といえます。人的資本経営では3つの視点と5つの共通要素を念頭に置き、自社が策定した戦略の実現可能性を高めていただきたいと思います。それが企業価値の向上や、ひいては日本経済の活性化につながります」
谷口 真美氏
早稲田大学商学学術院 教授(国際経営論)
1996年、神戸大学大学院経営学研究科博士後期課程修了、博士(経営学取得)。2008年4月より現職。13年8月より15年3月までマサチューセッツ工科大学(MIT)スローン経営大学院研究員。
20年度まで経済産業省ダイバーシティ経営企業100選/プライム運営委員。ダイバーシティを専門とし、06年から現在までボストン大学ダグラス・ホール名誉教授らと、キャリア意識と行動の26カ国比較研究に取り組む。