栗原聡氏
慶應義塾大学理工学部 教授
慶應義塾大学共生知能創発社会研究センター センター長
慶應義塾大学大学院理工学研究科修了。博士(工学)。NTT基礎研究所、大阪大学、電気通信大学を経て、2018年より現職。マルチエージェント、複雑ネットワーク科学、計算社会科学などの研究に従事。人工知能学会副会長・倫理委員会委員長。
著書に『AI兵器と未来社会 キラーロボットの正体』(朝日新書)など多数。
世界経済フォーラムの2020年年次総会で、第4次産業革命による新たなスキル習得のために、2030年までに、より良い教育、スキル、仕事を10億人に提供できるようにするというイニシアチブが発表され、Adecco Groupでも、2030年までに500万人の人々のリスキリングとアップスキリングに取り組んでいる。
そんななかChatGPTをはじめとする生成AIが登場し、瞬く間に広がっている。人の働き方やスキルにおいて進化を続けるAI はさらなる変化をもたらすのか。日本におけるAI研究の第一人者である、慶應義塾大学理工学部教授で、慶應義塾大学共生知能創発社会研究センター長の栗原聡氏に話を聞いた。
世界でリスキリングへの取り組みが始まって久しい。欧米では2010年代後半から、リスキリングやアップスキリングが活発に進められてきた。世界経済フォーラムの年次総会(通称、ダボス会議)では、2018年から3年にわたってリスキリングを会議の主要テーマの一つに取り上げ、2020年の年次総会で「2030年までに全世界で10億人をリスキリングする」と宣言。アマゾンが2025年までに10万人に対して、1人当たり約75万円の予算を投じ、教育機関も設立してリスキリングを行うことを発表するなど、主要企業でも続々とリスキリングの取り組みが進められている。
一方、デジタル化の波に乗り遅れていた日本では、一部のグローバル企業はリスキリングに動き出してはいたものの、まだ大きな潮流とはなっていなかった。そんななか、2022年10月3日に岸田首相が所信表明演説で、「個人のリスキリング支援として、5年間で1兆円を投じる」と表明。これをきっかけに国内において、リスキリングの波が広がりつつある。
日本ではDX(デジタルトランスフォーメーション)推進の動きと相まって、「リスキリング=DX人財の養成」と捉えられる傾向もある。しかしリスキリングの目的は、これからの社会で必要とされる新しいスキルを獲得し、現在の仕事や転職に生かすことにある。リスキリングとは、DX人財を養成することに限定されるものではないだろう。同時に、現在すでに保持しているスキルを向上させるアップスキリングも求められている。
世界中で人財のリスキリングが進められている最中、世界を揺るがす事態が起きた。それがChatGPTなどをはじめとした生成AIの登場である。生成AIとは、与えられた情報から新しいデータやコンテンツを生成するAI技術。人間が苦心して行っている情報収集や市場分析、さまざまな文書作成も、適切な指示を与えれば一瞬にして作り上げてしまう。そのインパクトはすさまじく、瞬く間に世界に広がっている。
人間の仕事の大半が、AIに取って代わられてしまうという懸念の声は以前からあるが、生成AIの登場はリスキリングのあり方も変えてしまうのだろうか。不安を抱えるビジネスパーソンも少なくないだろう。
だが、栗原氏はそうした不安の声に対して、「今存在する生成AIは、SF映画などに登場するような、まるで人間かのように動作するAIとはかけ離れたものであり、人間に取って代わるものではない」と話す。
「AIが流ちょうにしゃべったり、素晴らしい絵を描いたりするのを目の当たりにすると、意思を持った自律型のロボットを想像してしまうかもしれません。しかし現在の生成AIは、人間が何かの指示を与えない限り機能しません。その意味では、あくまで『道具』にすぎません。正しく言うなら『知的ITシステム』です。できることは高度になりましたが、位置づけとしては電卓と変わりないのです」
栗原氏が研究者として開発を目指す、自律性を持ち、人間と共生するようなAIの姿にはまだまだ程遠いという。とはいえ、現在の生成AIが人類に大きなインパクトをもたらした点は栗原氏も認める。
「最大のインパクトは、高性能なテクノロジーを一部の人だけでなく、圧倒的多数の人に使えるようにしたことです。これを私は“AIの民主化”と呼んでいます」
今までは、AIは専門的なIT知識を持つごく一部の人にしか使えないものだった。それを専門知識のない一般の人でも使えるようにしたことで、“AIの民主化”が起きたという。
「AIの民主化によって、誰もが創造性を発揮できる時代になりました。例えば文章を書くのが苦手な人でも、ストーリーを考えるのが得意なら、AIで小説が書けます。今まで文章が書けないがために、ストーリーを生み出す才能が埋もれてしまっていた人も、作家として活躍できる可能性が出てきたのです。これは、人類全体の創造性を飛躍的に広げるといえるでしょう」
そして生成AIの登場は、リスキリングにも影響が及ぶと栗原氏は言う。「AIを使うために、特別なIT知識や技術を学ぶ必要はなくなりました。その代わりに、今後はAIを上手に使いこなすための力がより求められるようになります」(図1参照)
専門知識のない一般の人でもAIが使えるようになった世界では、AIを使うための知識や技術ではなく、AIを使いこなす力が求められるようになる。
では、AIを使いこなすためには、どのような能力が必要なのだろうか。
「まずは『考える』ということです。『人間は考える葦』だといわれますが、まさにそれです。道具は使う目的があるから存在します。その道具で何を実現したいのか、なぜその道具が必要なのか、その道具でどんなものをつくるのか。そうしたことを使う人間側がしっかり考えるのが重要です。進化を続けるAIを使いこなすには、これらが人間側の仕事だといえます」
何かを実現するために、その手段としてAIを使う。ではAIを使って成果を出すためには、何が必要なのだろうか。そこで問われるのが創造性だと、栗原氏は指摘する。
「将来は面倒なことや苦手なこと、ルーティンワークや単純作業などはAIが人間の代わりに行ってくれるようになるでしょう。そうなると、人間に残されるのは創造性のある仕事です。働く一人ひとりが好きなことに取り組み、創造性のある仕事をする。誰もがイノベーションを起こすチャンスが生まれるのは、会社にとっても社会にとっても明るいことです。いかに一人ひとりが創造性を発揮できるかが、大事になってきます」
人が創造性を発揮し、AIを使いこなすうえで重要な能力として、栗原氏はものごとを「つなぐ力」を掲げる。
「創造性、つまり新しいものを創り出すイノベーションはどうやって起こるのかというと、そのほとんどは『すでに存在するもの同士の掛け合わせ』で起こっています。例えば『料理対決』のようなテレビ番組がありますが、あれは『料理番組』と『格闘番組』という既存のまったく違う番組同士を掛け合わせ、新たな価値を生み出しました。創造性とは既存のもの同士を『つなぐ』ことで生み出されるものなのです」
この「つなぐ力」を身につけ、補強するためのものとして、栗原氏は「文脈理解」と「メタ認知」の2つを掲げる(図2参照)。
AIを使いこなし、創造性を発揮するために必要なのが、ものごとを「つなぐ力」。この能力は「文脈理解」「メタ認知」という能力によって強化される。
「『文脈理解』とは、まず自分がどういう状況にあるのかを把握し、何をしなければならないのかを理解する力のことです。状況に対する理解ができていないと、どのようなものに価値があるのかわからないため、「つなぐ」ことによる価値そのものが見いだせません。また『メタ認知』とは、自分がしようとしていることを、俯瞰して客観視する力のことです。例えば、ある新しい製品やサービスのアイデアを思いついたとき、それを実行するにはどこに協力を求めるか、何に配慮しなければいけないのか、どうすればより多くの人に喜ばれるかといった点を考えられなければ社会のなかで価値あるものとして位置づけることができず、形にすることはできません」
イノベーションには創造性だけではなく、総合的な視点を持って臨まなければならないというわけだ。誰もが使えるAIだが、使う側にはこうした「使いこなすための能力」が求められる。AIを使って何かを実現するうえで重要なのが一人ひとりの創造性であり、その創造性を発揮するためにはものごとを「つなぐ力」が必要になる。そして「つなぐ力」を補強するのが「文脈理解」と「メタ認知」なのだ。
「これからは一人ひとりがAIをどう使うかを考える必要があります。そこでカギになるのが『好奇心』です。人は創造性のある仕事に注力できるようになると言いましたが、それは好きなこと、やりたいことに注力できるということです。その原動力になるのが好奇心です。AIを通して、私たち一人ひとりは、本当は何が好きなのか、本当は何をしたいのか、自分を見つめ直すことを求められているのです」
最終的には一人ひとりの好きなことを、社会課題の解決や、これまでにない新しいものやサービスの創出などにつなげていくようなスタイルに変わっていくということだ。
また栗原氏は、生成AIがシニアのビジネスパーソンに新しい収入をもたらす可能性があると指摘する。
「社会経験が豊富で、周囲への配慮や状況理解にたけているシニアの方々には、いわゆる高い社会的能力が備わっているといえます。つまり状況理解やメタ認知の能力が高いといえるのです。しかも定年後には、昔から好きだったことをやりたいと意欲を燃やす人も多い。その意味では、シニアの方々こそ、AIを使って創造性を発揮し、新たな収入を得られる可能性を秘めているといえるかもしれません」
生成AIの登場で、根本から見直しを迫られているのが教育分野だ。学生の生成AIの使用を巡り、さまざまな議論が展開されている。自身も大学で教育に携わる栗原氏は、この状況をどのように見ているのか。
「子どもたちはAIと人間が共存する社会を生きることになります。大事なのは、子どもたちの持つ旺盛な好奇心を育み、『つなぐ力』『文脈理解』『メタ認知』といった、AIを使いこなすうえで重要な力を身につけてもらうことです。これらの力は人間が集団や社会で生きていく際に根本的に備えておくべき能力であり、いわば『社会的能力(ソーシャル・スキル)』です。つまり、AIを使いこなすために求められる能力とは、実は社会的能力のことだといえるのです」(図3参照)
膨大な情報の処理や複雑な計算は人間に代わってAIが担う時代だからこそ、人間が本来身につけるべき社会的能力と基礎学力がより重要になってくる。
社会的能力は人と人とのリアルな交流のなかで身につくものであり、関係性を築くために必要な能力だと、栗原氏は指摘する。苦手な人とコミュニケーションを取ったり、違う意見を持つ人と交渉したり、他の人と協力して何かを達成したりすることが、貴重な経験となる。
「人と人とのリアルな交流は、AIでは代替できません。AIを使うことで、リアルな交流にマイナスの影響を与えてしまうのであれば、むしろAIは使うべきではないでしょう」
また栗原氏は、AIが複雑な計算などを行うにしても、人間にも基礎学力は必要だと指摘する。
「子どもの成長過程では面倒でも九九を覚えたり、自分で計算問題を解いたり、文章を書いたりすることは、基本的な思考能力を育むうえで大事なことです。その段階を経ないで、計算も文章作成もAIに任せてしまうと、『考える』ための基礎が育ちません。AIを使いこなすうえで使う側である人間が『考える』という行為が重要であることを考えると、本末転倒です」
栗原氏は教育におけるAIの使用に否定的なわけではない。
「一方で、AIやテクノロジーを使うことで好奇心が刺激され、さらに想像力やアイデアが育まれるケースもあります。AIを教育に使うことの是非は、一概にはいえないのです。AIを使うことによる影響を考慮し、場面ごとに判断する必要があります。ここでも、使う側である人間の『考える』力が問われているといえるでしょう」
栗原聡氏
慶應義塾大学理工学部 教授
慶應義塾大学共生知能創発社会研究センター センター長
慶應義塾大学大学院理工学研究科修了。博士(工学)。NTT基礎研究所、大阪大学、電気通信大学を経て、2018年より現職。マルチエージェント、複雑ネットワーク科学、計算社会科学などの研究に従事。人工知能学会副会長・倫理委員会委員長。
著書に『AI兵器と未来社会 キラーロボットの正体』(朝日新書)など多数。