人口約78万人。世界で唯一、チベット仏教を国教とし、農業や観光業、水力発電を主な産業とするブータン。近年では海外で学び、働く人も増えているという。日本では「幸福度の高い国」として知られるブータンで、人々はどのような価値観を持って仕事に向き合っているのか。ブータンで小中高校一貫の私立ペルキルスクールをご主人と立ち上げ、現在校長を務める片山理絵さんに聞いた。
コロナ禍で加速度的に進んだIT化
――片山さんがブータンに移住されてから、政治や産業はどう変わりましたか?
私が結婚をきっかけにブータンに移住して、約20年になります。その間、ブータンでの生活環境は劇的に変化しました。半世紀分ほどの変化があったという感覚です。まず、政治の面では、15年ほど前に絶対君主制から立憲君主制に変わりました。いまは5年ごとに選挙で新しい政権が選ばれ、政権が代わると政策も大きく変化します。
産業を取り巻く環境も変わりました。20年前は農業を主産業とされていた方は人口比にしても80%ぐらいだと思うのですが、現在は60%ぐらいにまで減っています。また、現在の国の歳入からいえば、水力発電が一番大きく、観光業も外貨獲得において主要産業の一つとなっています。
観光では、コロナ禍以前はホテルや食事、観光税などすべてを含めたパッケージツアーとして海外からの旅行客を受け入れていました。いまは政策が変わり観光税だけを国が徴収し、ホテルや飲食などは旅行会社がそれぞれツアーを組み競合する形になっています。国内または海外の旅行会社を経由しなければ、観光客としてはブータンに入国できない仕組みは変わっていません。
――コロナ禍で、観光業は大きな打撃を受けたのではないでしょうか。
2020年3月に国内初の新型コロナウィルス感染患者が出ました。発覚と同時に国境を封鎖しロックダウンしたため、他国に比べると、死者もほとんど出ていません。被害を最小限に抑えられたのはよかったのですが、観光がストップしたために経済は劇的に悪化し、若者の失業も深刻化しています。
ただ、コロナ禍のおかげでITの普及が加速したという良い面もあったと思います。スマートフォンアプリが発達し、駐車料金から道端で売っている野菜まで、ほとんどの決済がスマートフォンでできるようになりました。お寺に参拝する際のお布施もスマホで払えるんですよ。
――電子決済が進んでいるのですね。ほぼ全員がスマートフォンを使っているのでしょうか?
ブータンは少し前まで世界最貧国30カ国のなかに入るような国だったのですが、現在は大多数の国民がスマートフォンを持っています。若い人たちは、日本と同じようにYouTubeやTikTokを見ますし、年配者もコロナ禍期間はお寺に行けなかったため、お経を流せるアプリを使ってお祈りをしていました。
仕事は家族を養うための手段。ブータン人にとっての生きがいは「生きること」そのもの
――雇用環境や働き方について教えていただけますか。
ブータンは公務員の割合が高く、民間で働く場合でもほぼ全員が正社員です。パートやアルバイトとして働く人が社会においてごく少数となっているので、時給という概念がほぼありません。公務員は基本的に朝9時から夕方5時までの完全週休2日制。残業は基本的に誰もしないので、残業手当の制度もありません。
コロナ禍でテレワークをしていた期間もありましたが、あまり根付かず、コロナ禍以降はオフィスに行って仕事をしている人がほとんどです。
――家庭と仕事の両立についてはいかがですか。
ブータンでは「家事や育児は女性の仕事」という感覚がほとんどありません。私たちが運営するスクールでは、以前から子どもたちのお迎えに来るお父さんがとても多いです。日本から観光に来た友人がその光景を見て、「職がないお父さんが集まっているの?」と驚いていました(笑)。もちろんみんな働いているのですが、仕事中にお迎えに来ることも普通ですし、お迎えのあと、子どもを職場に連れて行き、子どもたちは親の仕事が終わるのを待っているんです。そのため、ブータンでは当たり前のように職場に子どもがいます。
――子育て世代にとって働きやすい環境が整っているのですね。女性は出産後も働き続けるのが一般的なのでしょうか。
出産後や育児中の女性もキャリアを諦める必要がない環境が整備されています。ブータンでは社会人になったあとに海外の大学院で学ぶ人が多いのですが、妻が海外に数年間勉強に行き、夫と子どもがブータンに残るケースも特別なことではありません。性別に関係なく、「勉強したいなら頑張ればいい」という考え方なんです。
観光や水力発電などの産業はありますが、まだ産業構造は不安定ですし、仕事の種類も少ない。そのため、留学だけでなく、海外に出て働く人も増えています。ブータンの学校では英語で授業が行われてみんなが英語を話せるので、海外に行くハードルが日本人よりも低いのだと思います。オーストラリア、カナダ、イギリスなどの英語圏が人気ですね。
政府も、海外留学や海外勤務について資金を援助したり、ビザを取りやすくしたりとさまざまな支援をしています。しかし、そのために人口流出に歯止めがきかなくなってしまったという課題も生まれています。
また、若者が海外で働きたい、学びたいと考える理由は、「海外に出て自分を試したいから」か、それとも「海外に出てお金を稼いで家族を養いたいから」かでいうと、多くは後者だと考えます。ブータンではキャリア志向の人は少ないです。
――日本には「仕事が生きがい」という人もいます。ブータンの人にとって仕事に対する価値観はいかがですか?
基本的に、ブータン人にとって仕事は家族を養うための1つの手段です。仕事と家族のどちらが大事かといえば、家族ですね。家族が病気になったら仕事を休みますし、周囲もそれを当たり前に許容します。ほとんどの人が仕事は生活を保障する手段と捉えているので、日本人のように仕事が生きがいという感覚はほとんどないように思います。
では、ブータン人にとっての生きがいは何かというと、それは「生きること」そのものなんです。自分の生活、自分の人生を生きることこそが生きがいなので、仕事など別の生きがいを見つけるという考え方にならないんですよね。
また、特徴的なのが、ブータン人が考える「家族」の捉え方です。ひとつ屋根の下に住んでいる人、親子・兄弟姉妹など血がつながっている人など、日本人が思い浮かべる家族よりも、もっと大きなものです。私からすると「それは他人では?」と思える人も「ブラザー」と呼んだりします。遠い親戚のお葬式でも、お手伝いのために仕事を休むのが普通の感覚なんです。
――片山さんはスクールを立ち上げ、運営されています。どんな思いでブータンの子どもたちと日々接しているのか、教えてください。
私は、教育には3つの側面があると考えています。1つ目は、学ぶ力を身に付けること。2つ目が、自分の好きな分野や興味があることのスキルを身に付けること。そして、最後が一番重要な、自分自身のキャラクターを形成すること。
この3つに共通していえるのは、「自分の人生を主体的に生きる」ということです。ブータンの子どもたちは、家族や親戚、先生など外部からの影響を強く受けるために、自分自身を見つめたり考えたりする機会が少ないんです。そのため、親や先生のいうことを素直に聞く「いい子」になってしまう。そうして深く考えるクセがつかないまま大人になると、自分の人生を主体的に生きていくことができません。自分で考え、決断し、行動する。その基本的なことを、教育を通してブータンの子どもたちに学んでほしいと思っています。
写真提供:片山理絵さん
幸福度のベースにあるのは、人々の「祈り」
――日本では、ブータンは「幸福度が高い国」として知られています。実際に住んでみてどのように感じていますか。
幸福度が高かったのはかなり前の話で、お伝えした通り、この20年で生活環境に大きな変化がありました。いまはインターネットやテレビで多くの情報が入ってきます。日本ほど情報過多の状況ではありませんが、以前に比べると、外の情報に触れる機会が劇的に増えました。
ブータン人もやはり普通の人間ですので、外の世界を知れば、「あれが欲しい」「これが欲しい」と思うようになります。誘惑も多くなっています。
日本の若者はいま、あまり海外に出ないと聞きました。それは、日本国内に仕事もあれば娯楽もエンターテインメントもあり、満たされているからでしょう。しかしブータン国内にはまだないものが多いので、インターネットで世界を知った若者のなかには、「海外に住んでみたい」「知らない世界を見てみたい」と考える人が増えています。
――情報が入ってきたことで、以前より「幸福度」が下がっているということでしょうか?
結局のところ、「人間の幸福とは何か」という話になりますよね。物があれば幸福なのか、自分を大事にしてくれる家族がいれば幸福なのか、自分のやりたいことができれば幸福なのか。幸福とは抽象的なもので、その人自身が決めることだと思います。
幸福度調査の項目も、先進国の尺度によるところが大きく、比較するのは難しい。ただ、他国と比較せず、ブータン国内で以前と比べて幸福度が下がったかと問われたならば、私は下がったと思います。情報が入ってこなければ「足るを知る」で満足できていたからです。
ただ、1ついえるのは、ここではまだ人が助け合わなければ生きていけません。日本ほど便利であれば、人を頼らずに生きていけるかもしれませんが、ブータンはまだ不便さが多々あるために、1人では生きていけないんです。人と人が助け合いながら生きていく。人がいて自分がいる、という感覚が常にあるために、すごく人を大事にします。その部分での幸福度はまだ下がっていないと思います。
――情報化の波のなかで変わっていく部分と、それでもなお変わらない部分があるのですね。
変わらない部分でいえば、ブータンにおける「信仰」の存在は大きいと思います。ブータンはチベット仏教が国教である世界で唯一の国です。ヒンドゥー教徒やキリスト教徒もいますが、大半がチベット仏教を信教しています。宗教が人々の心のよりどころになっていて、いまこの21世紀においても、目に見えない物事の存在を敬ったり恐れを感じたりする心とともに、「祈り」が常に生活の一部にあります。それは若い人でも同様です。
信仰によって不安が取り除かれるのと同時に、祈ることで頑張れたり励みになったりする。また、彼らは自分のためだけでなく、生きとし生けるものすべてに対して祈ります。いわゆる利他の精神です。自分のことだけを祈る場合と人に対して祈る場合とでは、そこから生まれるエネルギーが違います。信仰が根付き、空気のように存在する。その部分だけは、どれだけ時代が変わっても、変わることはないでしょうし、ブータンの幸福度のベースとなっている重要な部分ではないかと思います。
Profile
片山 理絵氏
私立ペルキルスクール校長、ブータン柔道協会特別顧問
岡山県倉敷市生まれ。ハワイ大学院卒業。大学院在学中にブータン出身のパートナーと出会い、28歳のときに結婚、ブータンに移住。2010年に中高一貫校として私立ぺルキルスクール開校。13年 小学部を開校、16年より校長を務める。学校運営の傍ら、2010年にブータンに柔道を紹介し、2013年にブータン柔道協会を設立し、現在柔道の普及活動にも力を入れる。2017年、内閣府男女共同参画局企画による、アジア・太平洋地域における「架け橋女性」として、ブータンから選出される。