経営環境の変化に対応するため、リスキリングが重要だと叫ばれて久しい。
すでに多くの日本企業がリスキリング推進に取り組んでいるが、新たな事業展開やイノベーション創出などの具体的な成果に結びつけている例はまだ少ないのが実情だ。
日本のリスキリングには何が足りないのか。そもそも新たな価値創造を導く学びとは何なのだろうか。日本のイノベーション研究の第一人者である一橋大学名誉教授の米倉誠一郎氏に語っていただいた。
リスキリングは経営者が自ら主導する必要のある重要テーマ
――日本企業のリスキリングの現状について、どのように捉えていますか。
グローバルエコノミーが拡大し、生成AIのようなテクノロジーも目覚ましく進化して、企業の競争環境がこれだけ大きく変われば、今まで培ってきたスキルは次々と役に立たなくなっていきます。リスキリングが求められるのは当然のことでしょう。ただ、日本の経営者は「リスキリングが大事だ」などと、言葉を掲げるだけで終わってしまっている気がします。企業にとってリスキリングとは、経営ビジョンや事業構想とセットで取り組むべきものです。これからの時代、我が社はどこに向かうのか。既存のビジネスをどう変革し、どんなスキルを備えた人財が必要なのか。それらと結びつけてリスキリングを語ることが重要です。これはイノベーションの推進でも同じですが、イノベーションは目的ではなく手段です。何かを遂行するために必要であって、イノベーション自体は目的ではない。同様に、リスキリングも経営トップが掲げた目標に向けて必要なスキルセットを提示する必要があります。それを認識できている経営者が少ないことが、日本のリスキリングの重大な課題だと思います。
──経営者はどのような手順や考え方で、リスキリングを進めていく必要があるのでしょうか。
具体的にどんな会社を目指すかは個々の経営者が考えることですが、日本企業が共通して取り組むべきは、やはり「生産性の向上と持続的成長」でしょう。以前から指摘されているように、国際的に見て日本の生産性は明らかに低下している。OECD加盟国のなかで、日本の労働生産性は31位で、イタリアやスペインよりも低いのです(日本生産性本部「労働生産性の国際比較2023」参照)。
では、どうしたら生産性を高められるのか。生産性はアウトプット(産出量)をインプット(投入量)で割ったものですから、方法は2つしかありません。1つは、分母である労働力の投入量を減らすこと。それを実現するためにはDX(デジタルトランスフォーメーション)が必要です。もう1つは、分子であるアウトプットを増やすことで、こちらは成果物の付加価値を高めることが求められます。この両方でリスキリングが重要になります。
前者の「DXで労働投入を減らすためのリスキリング」は、すでにDX研修などに取り組んでいる企業も多いでしょう。ここに持続的成長をプラスすることが重要です。
生成AIの登場がホワイトカラーの非定型的業務をかなり代替できるようになりました。ECサイト用の商品説明文やプレスリリースの作成、さらには製造プロセスでどの程度CO2が削減できるかの算定などもでき、生成AIを上手に活用すれば驚くほどの生産性と持続性が達成できます。この際に欠かせないのがAIに適切な指示や質問を与える「プロンプティング」で、突き詰めれば、自分の課題意識やゴール設定をロジカルかつ明確に言語化する能力です。「暗黙知」を「形式知」に変えるスキルといってもいい。これまで日本人が苦手としてきたスキルです。
最近は日本企業も人財の多様化が進み、言語も文化的背景も異なる人々とビジネスする機会が増えました。ここでもロジカルな思考・言語化の能力は重要です。最近、私の友人の稲垣隆司氏が『なぜ外国人に「ちゃんと」が伝わらないのか』という本を出版しましたが、非常に的を射た指摘です。われわれはよく「ちゃんとやって」と言いますが、同じ価値観を持つ日本人にしか通じない。否、最近では日本人同士でも難しい。「ちゃんとして」とは何なのかということです。
同質性が高い集団はいわゆる「Group Think」に陥りがちです。今は「集団思考」と訳されますが、昔は「集団浅慮」と訳していました。同質性が高い集団は前提を共有していると錯覚し、思考が浅くなっていくという本質を捉えた訳語です。人財が多様化するなかでは、前提を共有していない状態でも効果的なコミュニケーションを行うことが必要で、これは「プロンプティング」と共通するスキルです。
ロジカルに考え、言語化するスキルを鍛え直すことは、日本のホワイトカラーに今、最も求められているリスキリングだと思います。
価値創造のためのリスキリングは「アンラーニング」から始まる
──もう一つの、アウトプットの価値を高めるためのリスキリングはどのように捉えればよいでしょうか。
先ほど述べたように、イタリアは日本よりも生産性が高い。理由を考えてみると、例えば自動車業界ではフェラーリ、ファッション業界ではプラダなど、高級市場で強い存在感を持つ企業が数多くあります。いずれも日本が得意とする「安価で優れた製品を大量生産する」とは真逆のアプローチで価値を生み出している。イタリアを真似しなさいという意味ではなく、これからは日本企業も独自のやり方で、高付加価値の商品を高価格で提供する方向へシフトすべきだということです。同時に、他を圧倒する環境性能による付加価値増加も重要です。
新しい価値創造の枠組みを生み出すにもスキルが必要。これこそが、日本が最も力を入れるべきリスキリングのテーマだと思います。
──そうしたスキルも、リスキリングで身につけられるのでしょうか。
ヒントは「アンラーニング」にあります。一度すべての前提を捨て、新しい価値観を再構築するということです。
価値観を変えるには、まず行動から変える必要があります。ライフスタイルを見直し、日常生活のなかでも新しい視点を持つようにする。幸い日本には、私たちの価値観を刺激してくれる要素がたくさんあります。日本列島ならではの四季の美しさや食文化の豊かさ。これらにも、新しい価値を創造するヒントが隠されています。最寄り駅の隣の駅で降りて通勤し、いつもと違う景色に触れてみる。食材の“旬”を意識した食事を心がける。些細なことと思うかもしれませんが、小さな行動変容をきっかけに視野が広がるはずです。あるいは、アフリカ大陸などに旅に出るという行動展開も重要です。
大事なのは、こうした広い意味でのリスキリングを形だけで終わらせず、ビジネスモデルの転換や新たな事業創造にしっかりと結びつけることです。例えばイタリアには、それまで廃棄されていたリンゴの皮や芯を原料とする合成レザーの開発・販売を手がけるFrumatやMABEL(現CORONET)という企業があり、廃棄物削減とアニマルフリーにつながる取り組みとして注目を集めています。またデンマークの電力会社オーステッドは、かつては石油・ガスなど化石燃料を中心とするエネルギー企業でしたが、180度方向転換して、今では洋上風力発電で世界首位の企業になりました。このように、地球環境と成長機会を同一視して考えるリスキリングは最も重要です。
日本企業では、これほど大胆なビジネスモデルの転換や事業創造の例はまだ少ないけれど、ぜひチャレンジしてほしい。見方を変えることは本当に大切で、見方を変えると競争力のあるものが見えてくる。例えば世界的なサッカー選手たちの多くが、『キャプテン翼』に刺激されてサッカーを始めたと言います。米国ドラマ『SHOGUN 将軍』は、戦国時代の日本を丁寧に描くことで大ヒットして、エミー賞を受賞。こういう例を見ても、新しい価値創造のヒントは日本に色々と眠っていると思うのです。
冒頭の話に戻りますが、やはり最も重要なのは、経営者自身のリスキリングですね。時代の変化に対し表面的なスキルの習得だけで対応しようとしても、AIとの競争に陥ってしまいます。意識改革や価値観の転換を図るようなリスキリングを、経営者自身がまず実践する。そのうえで、経営者が先頭に立ち、社員が価値創造のためのリスキリングを牽引していく。そういう発想が求められているのだと思います。
Profile
米倉誠一郎氏
一橋大学 名誉教授 デジタルハリウッド大学院 特命教授
県立広島大学大学院経営管理研究科研究科長
一橋大学社会学修士、ハーバード大学博士。専攻は、イノベーションを核とした経営戦略と組織の歴史的研究。一橋大学イノベーション研究センター教授、法政大学大学院イノベーション・マネジメント研究科教授を経て現職。学外では、公益社団法人の会長やNPO法人の理事、株式会社の社外取締役なども務める。
The Japanese Iron and Steel Industry1850-1990: Continuity and Discontinuity (Macmillan)、『経営革命の構造』(岩波新書)、『創発的破壊:未来をつくるイノベーション』(ミシマ社)、『オープン・イノベーションのマネジメント』(有斐閣)などのほか、多数の著書がある。